横浜開港の地「象の鼻地区」 | |||
象の鼻地区は、1854年3月31日アメリカ合衆国代表ペリー提督が初めて公式 に日本に上陸した場所で、日本は200年続いた鎖国政策を「日米和親条約」 の調印により開国しました。 江戸時代末期、長く外国との関係を絶ってきた日本ですが、開国を求めて米 国のペリー提督の一行が来航した事で、欧米諸国と初めて近代的な条約を結 び、開国の1歩を踏み出します。 |
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この歴史的な事件の舞台と なった場所が現在の横浜開 港資料館の場所になります。 |
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ペリー提督 | ||||||
幕府は様々な理由から、江戸や東海道筋から離れた 一寒村であった横浜を日米会談の場所としてペリーに 求めます。 横浜にペリーが上陸する日、27隻のボートに乗り込ん だ500名の水平が横浜の海岸に並び、7発の礼砲と軍 楽隊の演奏の中、ペリーが2度目の日本上陸を果たし ます。右側に描かれている大きな木は現在も横浜開 港資料館の中庭に上陸の証人として生きています。 |
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その後、安政5年(1858年)には米、蘭、露、英、仏と 修好通商条約が結ばれ、翌年、横浜港が開港すると、この地 区に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の 二つの波止場が作られました。 東波止場は時代とともに少しずつ形を変え、開港から7年目の 慶応二年の大火災を期に港湾整備が行われ、イギリス人土木 技術者ウィットフィールドによって二つの防波堤が、 船たまりを抱きかかえる形で防波堤を作りました。 |
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人々は大桟橋手前から曲線を描く突堤が、象の鼻に似て いることから、この防波堤を親しみを込めて「象の鼻」 と呼びました。 現在、象の鼻地区は国際貿易港として発展し続けている 横浜港において、今も変わらずに往時の空気を伝えてい る貴重な空間として、150年前と変わらない場所にその 姿を残しています。 現在、開国以来から続く歴史的なこの地区を、横浜の歴 史と未来をつなぐ象徴的な空間として、整備が進められ ています。 |
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象の鼻地区の歴史的変化 | |||